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育休をめぐる摩擦 ―「もらい逃げ」と言う前に考えたいこと―

2026.6.8

「育休もらい逃げ」という言葉が使われるとき、ほとんどの場合、感情の段階で止まってしまいます。この言葉は短く、直感的に理解しやすい反面、育児休業をめぐる問題を個人の倫理や姿勢の話を一気に単純化してしまう力を持っています。しかし本来、この問題は誰かの善悪を裁く話ではありません。制度がどう設計され、仕事がどう再配分され、そのコストがどのようになっているのかという、きわめて制度的な話です。この前提を共有しない限り、言葉は荒れて、何度も同じ場所に戻ってきます。

まず、育休そのものについて、事実を正確に整理する必要があります。日本の育児休業は、育児・介護休業法に基づいて保障された労働者の権利です。取得するかどうかは本人の意思に委ねられており、会社の裁量や上司の好意によって与えられる特別措置ではありません。育休を取得したことを理由に、解雇や降格、不利益な配置転換などを行うことは禁止されています。この点が曖昧なままだと、頂いた、迷惑をかけたという感覚が先に立ち、制度の話が道徳の話にすり変わってしまいます。

育休中の金銭的な仕組みについて、確認しておく必要があります。育休中に支給される育児休業給付金は、雇用保険制度の中に位置づけられた給付で、会社が個別に給料を払い続けているわけではありません。雇用保険は、労働者と事業主が保険料を拠出し、そこに国庫負担が加わることで成り立つ社会保険制度です。その目的は、単に失業した人に現金を支給することではなく、雇用の安定と生活の継続を社会全体で支えることにあります。実際、雇用保険の仕組みは、失業等給付、育児・介護休業給付、雇用安定・能力開発事業といった複数の柱から構成されており、いわゆる失業手当だけに使われている制度ではありません。

育児休業給付金は、このうち「育児・介護休業給付」に位置づけられています。支給額は、休業開始前の賃金を基準として算定され、育休開始から一定期間は67%、その後は50%という割合で設計されています。これは、育休中も雇用関係が継続していることを前提とした給付であり、失業状態とは異なる扱いです。また、この給付金は所得税の課税対象ではなく、給与所得として扱われません。さらに、育休期間中については、所定の手続きを行えば、健康保険料および厚生年金保険料について、被保険者負担分だけでなく事業主負担分も免除されます。雇用保険料についても、給与が支払われない期間には本人負担は発生しません。これらが重なることで、名目上の支給率よりも、手取りベースでは減少幅が小さく感じられる場合があります。

この点だけを見ると、ほとんど給料と変わらない・会社の負担で生活しているといった印象を持たれがちですが、実際には、これは雇用保険制度の中であらかじめ想定された設計の結果です。育児期は、個人の努力や節約だけでは乗り切れない生活上の負担が集中する時期であり、そのリスクを社会全体で分担するというものです。特定の個人が制度を利用することで、誰かから不正に利益を奪っているわけではありません。さらに重要なのは、雇用保険がもともと、個人だけでなく企業側にも給付や助成を行う制度であるという点です。雇用調整助成金などに代表されるように、雇用を維持するためのコストもすでに社会全体で分担されているのです。育休給付もその延長線上にあると言えます。

それでも現場で摩擦が生じる理由は、お金に関する不理解だけでなく、業務分担の仕組み。育休を取った人の業務は、原則として消えません。日常業務、締切のある仕事、対外的な責任はそのまま残り、それらは誰かが引き受けます。多くの職場では、育休取得に合わせて十分な代替要員を確保することが難しく、同じ部署の同僚が業務を分担する形になります。このとき増えるのは、単なる作業量だけではありません。判断責任、調整、説明、対応、気遣いといった、数値化しにくい業務が確実に増えます。ところが、これらの引き継ぎ業務は、多くの場合制度上も評価上も明確に位置づけられていないことが多いと思います。

この状態が続くと、確実に増えた負担と評価も補償もないという感覚のずれが蓄積します。このずれが制度や業務設計の問題として扱われないまま放置されると、不満は制度ではなく人に向かいます。育休取得者は、もっとも目に見えやすい存在だからです。こうして「もらい逃げ」という言葉が、複雑な構造を一言で説明する便利な表現として使われてしまいます。


ここで重要になるのは、引き継ぎを個人の善意や職場の美談として処理するのではなく、育休という制度の運用によって必然的に発生した追加業務として、正面から位置づけることです。引き継ぎは「助け合い」である以前に、制度が生み出した業務の再配分であり、その負担が誰かに集中すること自体は、制度設計の問題です。この点を曖昧にしたまま善意に委ねると、負担は見えにくくなり、不満だけが後から残ります。

制度の正しい理解とともにインセンティブの設計が重要になると思います。それは必ずしも金銭である必要は無いと思います。むしろ、賃金体系に直接影響する金銭手当は、誰に、どれだけ支払うのかという線引きをめぐる新たな不公平感を生みやすく、職場内の摩擦を増幅させる可能性があります。また、短期的な金銭補填は、引き継ぎによって生じた時間的・心理的な消耗を十分に回復させるとは限りません。

そこで有効なのが、休日や福利厚生を通じた、回復を目的としたインセンティブの設計です。例えば、一定期間にわたって引き継ぎ対応を担った社員に対して特別休暇やリフレッシュ休暇を付与する、福利厚生ポイントを加算する、研修や自己研鑽の機会を優先的に提供するといったような方法があるかもしれません。これらは頑張ったことへのご褒美ではなく、制度対応によって消耗したものをフォローする措置として位置づけることができます。このように位置づけを明確にすることで、引き継ぎを担った側の納得感は高まり、育休制度そのものへの不満が個人に向かうのを防ぐことにつながるかもしれません。

次に重要なのが、復職者が辞めなくて済むための会社側の制度設計です。ここで混同されがちなのは、復職できることと働き続けられることは同じではないという点です。名目上の時短勤務制度があっても、業務量や責任がほとんど変わらなければ、生活は成立しません。辞めなくて済む条件とは、元の働き方に戻すことではなく、育児期という制約を前提に、業務量・責任・役割を再設計し、将来的に戻れる方法を共有することです。

それでもなお、育休後に退職を選ばざるを得ないケースは存在します。ここで重要なのは、退職という選択を裏切りや制度の悪用に見せないことです。そこで、育休後に退職した場合には、雇用保険の枠組みを用いて会社側に一定の給付を行い、引き継ぎや代替対応のコストを社会全体で分担するという設計が有効かもしれません。これは企業救済ではなく、育休という社会的に奨励された制度利用によって生じた摩擦を、個人の我慢や道徳に押し付けないための仕組みです。問題は、誰かが育休を取ったことではなく、育休が取られることを前提に、仕事が設計されていないことにあります。

育休の正しい説明、引き継ぎへの回復的インセンティブ、復職者の就労条件最適化、そして退職時の制度的リスク分担。この四点がそろうことで、育休をめぐる議論は、人を責める話から、設計を考える話へと戻っていきます。言葉が荒れる職場とは、人の心が弱い場所ではありません。制度と仕事の設計が現実に追いついていない場所です。育休をめぐる問題は、事実を丁寧に共有し、摩擦を制度として処理することで、少なくとも、人を責める議論からは抜け出せるのではないかと思っています。


【デザイン・リーガル・ディクショナリー】

育児・介護休業法:
育児・介護休業法(正式名称:育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律)は、育児や家族の介護を行う労働者が仕事と家庭生活を両立できるよう支援することを目的として、1991年に制定された法律である。育児休業、介護休業、子の看護等休暇、介護休暇、短時間勤務制度などを定め、男女を問わず利用できる。近年は男性の育児休業取得促進や仕事と介護の両立支援のための改正が進められており、少子化対策や働き方改革の重要な柱となっている。
(参考:e-Gov法令検索「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」、https://laws.e-gov.go.jp/law/403AC0000000076 )
(参考:厚生労働省「育児・介護休業法について」、https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000130583.html )
(参考:厚生労働省「育児・介護休業法のあらまし」、https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/000103504.html )

育児休業給付金:
雇用保険の被保険者が育児休業を取得した際に、休業中の所得を補償するために支給される給付金である。原則として1歳未満の子を養育するために育児休業を取得し、休業開始前2年間に一定の被保険者期間を有することなどが受給要件となる。給付額は休業前賃金を基準に算定され、育児休業中の生活保障と職場復帰の促進を目的としている。支給主体は雇用保険制度であり、申請はハローワークを通じて行われる。 (厚生労働省)
(参考:厚生労働省「育児休業等給付について」、https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000135090_00001.html )
(参考:厚生労働省「Q&A~育児休業等給付」、https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000158500.html )

産後パパ育休(出生時育児休業):
2022年10月の育児・介護休業法改正により創設された制度で、主に男性労働者が子の出生後8週間以内に通算4週間(28日)まで取得できる育児休業である。2回まで分割取得が可能で、通常の育児休業とは別に取得できる。また、労使協定がある場合には休業中の一部就業も認められている。子どもの出生直後の育児参加を促進し、仕事と家庭の両立を支援することを目的としている。
(参考:厚生労働省「産後パパ育休(出生時育児休業)」、https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/ryouritsu/ikuji/paternity/ )

くるみん認定:
次世代育成支援対策推進法に基づき、仕事と子育ての両立支援に積極的に取り組む企業を「子育てサポート企業」として厚生労働大臣が認定する制度である。企業は一般事業主行動計画を策定・実施し、男性の育児休業取得率や女性の育児休業取得率など一定の基準を満たすことで認定を受けることができる。認定企業は「くるみんマーク」を使用でき、育児と仕事の両立を支援する企業として社会的に評価される。
(参考:厚生労働省「子ども・子育てくるみんマーク・プラチナくるみんマーク・トライくるみんマーク」、https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/shokuba_kosodate/kurumin/index.html )
(参考:厚生労働省「くるみん認定・トライくるみん認定・プラチナくるみん認定とは」、https://shokuba.mhlw.go.jp/published/special_01.htm )

代替要員確保と業務再配分の仕組
育児休業や介護休業を取得する労働者が安心して休業できるよう、事業主が休業期間中の業務体制を整備する取組を指す。具体的には、代替要員の採用・配置、派遣労働者の活用、業務の分担や引継ぎ、チーム内での業務再配分などが行われる。これらは育児・介護休業法や関連施策のもとで推進されており、休業取得の促進と職場への負担軽減、円滑な職場運営の両立を目的としている。
(参考:厚生労働省「両立支援等助成金(育休中等業務代替支援コース)」、https://www.mhlw.go.jp/content/001210210.pdf

お互いさま:
社会生活や共同体の中で、人は誰しも助けたり助けられたりする存在であるという考え方を表す言葉。誰かが困ったときには支え、将来は自分も支えられるかもしれないという相互扶助の精神を示している。職場における育児休業や介護休業、地域社会での助け合いなどの場面で用いられることが多く、一時的な負担の分担を受け入れながら長期的な信頼関係や協力関係を築くための価値観として重視されている。
(参考:コトバンク「御互い様」、https://kotobank.jp/word/御互い様-452796 )

KY:
「空気が読めない」の頭文字を取った俗語であり、その場の雰囲気や周囲の人々の感情、暗黙の了解などを理解せずに言動する人を指して用いられる。2000年代後半に若者言葉として広まり、2007年には流行語として注目された。日本社会では協調性や集団の和が重視される傾向があるため、「KY」は周囲との関係性に配慮しない態度を批判的に表現する言葉として使われることが多い。一方で、過度な同調圧力を生む要因として批判的に論じられることもある。
(参考:コトバンク「ケーワイ」、https://kotobank.jp/word/けーわい-3221524 )

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